必要なことは母親から教えられていた。

 

 

今日は私の母のことについて、少し紹介させていただきたいと思います。

 

親との関係も、自分を作り出すものだと考えているので、どのように親と接してきたか、学んだかは自分を知るヒントだと思っています。

 

 

 

 

早速はじめます。

 

 

私の母は静岡県の島田市で江戸時代から続く旅館長女として生まれました。

 

特に不自由はなかったようですが、母親が乳がんで、その治療のために東京に行くことになり、また、父親もゼネコンの責任者でもあって普段は家にいない生活。

 

さみしいので、いつも見送りに行った蒸気機関車が停まる駅に、両親が帰ってこないか見に行くようなことをしていたようです。

 

そのような母親でして、私自身が長男。下に妹が二人おりますが、母親から非常な愛情を注がれていたように、当時は気づきませんでしたが、近頃は特に感じています。

 

彼女は私達に常にチャンスをくれました。習い事にも通わせてくれてました。

 

うちは田舎なので、何かを習わせる習慣はなく、祖母からその辺りを母は言われていたそうです。

 

当時、国鉄マンの父と祖父母、おじ、おば、母の姪、私と妹二人、そして母と10人で暮らしていたので、食事の準備片付けにお弁当も入れていたというのですから、お手伝いさんが嫁ぐ前まではいた生活だったので、急変ぶりにとまどったのではないかと思っています。

 

そんな中、彼女は私たち兄弟にいつも寄り添ってくれてましたし、母が亡くなった今でもそのぬくもりは感じています。

 

勉強しろとは一度も言われたことはなく、嫌なら習い事もやめていいというスタンス。なので、中学になるとついていけずに、劣等生でした。

 

それでも、批判的なことは何も言わずによき理解者でいてくれたのです。

 

まさに、彼女はとりわけ、愛情と自信とを与え続けてくれました。

 

おかげで、大学にも入れ、その後に続いているわけなのです。

 

 

彼女は、母親としての役割以外に仕事を持ち、書店での配達、総合病院の看護助手、化粧品の販売員を経て子供が学校を出るとボランティアの道に入っていきました。

 

そして、自分のルーツである東海道53宿が嫁ぎ先の大津にもあったことに気づき、非常な情熱をもってまちづくりに取り組んでおり、いつの間にかを出したり、テレビに出たり、講演するようになり家族も驚きつつうまく手伝わされてました。

 

口癖は「ふつうのおばさんでもやれば変われるのよ」、「人の為になるような生き方をしなければ何も意味がない」でした。しかし、私にはその意味が分かっていませんでした。

 

私は、琵琶湖のほとりで育ち、お店もない、人もいない。そんな中におりましたので、本当によくわからないことだらけでした。

 

そして、大学、仕事で、自分がいた世界を飛び出し、旅をし、見たり聞いたりする中で、何年も何年もかかってようやく自分が背負うべき責任が分かりました。

 

世界を旅し紛争地に住む人、痩せこけた土地に住む人、そして、様々な働き方の人と出会い、この世界の大半の人にとって、人生がどのようなものかということを知りました。

 

食べるものがあり、住む家があり、それがどれほど幸せで、自分がどれだけ守られて過ごしてきたかを改めて気付かされました。

 

そして、私は変わろう。そう決心しました。

 

私達は、一般的におそらく、これを見てくれているような方は、ラッキーな方だと考えています。

 

人は、みな平等ではなく、運で生まれてくる環境でできることも限られてきます。

 

なぜ、自分はこのように生きることができて、この同じ時に、世界のどこかでは難民キャンプで生きている人がいる。

 

でも、私は母親が言っていたように、自分に与えられた人生を最大限に生かそうと思っています。

 

人の為になるように。

 

世の中には、不幸感を持って生きている人が大勢います。

わたしなんて価値がないんだと。

 

でも、実はそうじゃないんです。

 

私達は幸運に囲まれて生きている。

日本にいることだけでラッキーなのです。

 

みんなわたしの母が変われたようにいつからでも変われるのです。

 

もしも、母の教えから、私がこのように思い至ったと知ったなら、おそらく喜んでくれるのではと思うのです。

 

最後に、改めて伝えたいと思います。「お母さん産んでくれてありがとう」。

 

よく考えれば、全ては母親から教わってましたね。