宣教師から堺と並び中世の自治都市と言われた湖族の郷 堅田(滋賀県大津市)の街をウォーキング

今回は、滋賀県大津市の堅田にやってきました。

ここは船を操って活動した湖族の集落があったところなのです。

近隣の方は滋賀県にはドライブなどで来られて、琵琶湖大橋を渡られた方も多いでしょう。

橋は渡るけれど、その橋のたもとを見ないというのはもったいない。

ご覧いただき、また是非訪れてみてくださいね。

堅田の概要

湖族の郷、堅田は、比叡山を源とする川の沖積地という豊かな土地に集落が作られました。地元の資料によると、五世紀ごろの古墳があり、古墳時代から人々が活動していたことが分かっています。また、京都の下鴨神社に土地の幸を献上するという関わりから、皇室とも縁があり、比叡山延暦寺とも関係を深めて、琵琶湖の水運と漁業で絶大な自治都市を形成。ポルトガルの宣教師ルイスフロイスは、堅田の町並みを見て、泉州堺と並び称していたという手紙が残っています。

江戸時代に入ってからは、堅田藩が置かれ、四代将軍家綱の大老として権勢を誇った堀田正俊大老の三男が初代藩主として当地を治め、約130年間かけて、城下町風の今も残る町並みを整備した。そして、堀田家の後に入った佐野藩の統治下の元で幕府の天領となるという深い歴史があるのです。

堅田 年表

五世紀末〜7世紀末 西羅古墳、坂尻古墳

645年ごろ 衣川廃寺跡

782年ごろ 伊豆神社(堅田の氏神)創建、比叡山の恵心僧都が浮御堂建立

1090年ごろ 京都下鴨神社の御厨となる

1338年ごろ 新田義貞の妻、勾当内侍が堅田で入水

1415年   一休和尚が祥瑞寺で修行

1465年   蓮如上人、滞在

1468年   延暦寺から真宗門徒が攻められる

1500年   近江八景制定

1685年   松尾芭蕉による観月会

1698年   堀田正高が入封

一休さんが堅田で修行したという記事もよかったらどうぞ。

堅田 当日の様子

やってきました堅田。

私の地元から車で10分ほど。

電車で二駅。

今回まわるのは、現在地とあります場所のあたりになります。

堅田は水路が整備されています。

上の地図でもわかるように、琵琶湖につながる内湖があり、かつては船が行き交ったのでしょう。

新田義貞の妻の墓がある野神神社

ここは南北朝時代に、後醍醐天皇に仕えていた勾当内侍(こうとうないし)の墓。鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の奥さんです。

足利尊氏と新田義貞が争い、新田義貞が破れ、京都から福井に追っ手から逃げる道中のこの地に妻を置いたと言われていて、妻はその後入水して果てたことから、この地のものが弔ったのだそうです。

このお社の後ろに最初の画像のお墓がありました。

伊豆神田神社

続いてやってきましたのが、伊豆神田神社。

野神神社から徒歩すぐです。

元々は神田神社だったのが、後から伊豆神社を合祀したのだそうです。

社紋は双葉葵なんだそうですが、双葉葵といえば下鴨神社。

この地は、上の説明にも書きましたが下鴨神社と縁があるのです。

このことからも、それがうかがい知ることができます。

このあたりは漁師町で、その精神的な支柱だったとか。

ご祭神はともに五穀豊穣がご利益とされて大切にされてきました。

真ん中にアゲハ蝶が見えます。

なんでも神社でアゲハ蝶を見るのはラッキーなんだとか。

せっかくなので、いい方にとらえておきましょう。

ラッキーラッキー。

味のある狛犬さんでした。

湖岸の方に出ていきます

狭い路地を抜けていきます。

車が通れない道の広さが古道を歩いている感がして、とても懐かしさを感じます。

奥に見えますのが琵琶湖大橋。

この石垣がまた素晴らしい。

この地に住む、ご先祖が船大工だったという方からじっくり歴史を教えていただきました。

この石は琵琶湖の沖の島から持ってきたのだとか。

さすが船を自由に使っていた湖族だからこそ。

今は、琵琶湖の水の流れは管理されていますけれど、昔の湖面はもっと高かった。

この撮影している場所は公園になっていて、昔はそれが全部水の底だった。

とても面白いお話。

船をあげて修理するドックの跡。

緑も多く、風も涼しく、とてもリラックスできる散策でした。

食べ物屋さんはありませんが、食事は町の中心部で済ませるか、道の駅に行くといいでしょう。

道の駅に車を停めて、散策し、休憩しながら楽しんでみてはいかがでしょうか?

Youtubeで動画も配信中です

文字だけでなく、動画も活用して、自然や歴史や心がホッとするイメージで動画作っています。

よかったらご覧ください。

これは琵琶湖大橋をウォーキングとか走った時の動画。

とても気持ち良かったです。

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