生きれるなら何としても延命したい人?それとも治療は拒否?答えは人の数だけありそうだ

臨床宗教師の人の話を某国営放送でやっていてつい見入ってしまった。

出演していた人は看護師でもあり、真言宗の僧侶でもあるという。

死に関しては、どの人もあまり考えたくはないだろうが、間違いなくたどり着くところなので考えておいて悪いことはないと僕は思っています。

 

近所で3人が亡くなった

正月明けてから、同じ町内で2人が亡くなり、ついこないだ喋って笑っていた病気を克服したといっていた女性が亡くなったというタイミングでもあり

死については、自分に対する「問い」としていつも自分の額の前につきつけられている感じがしています。

また、母が60歳で亡くなり、父も癌で69歳で亡くなるという、この高齢化の世の中にはめずらしいことになっているうちの事情もあって興味があるのです。

幸せな死を迎えるには

おそらく、死にもいろいろなパターンがあるだろう。

ピンピンころり、老衰、病死などあると思うのですが

これについて、出たとこ勝負ではなしに前向きに関わっていくほうが幸せなのではないでしょうか?

幸せに生活したい、幸せに家族がいてほしい、幸せな友人関係とどんどんその次の幸せを模索すると、幸せな死に行き着くはず。

幸せの概念が人の数だけあるだろうから、自分の価値観をまとめておくのがいいのではないかと考えています。

死を操作する世の中

看護師としての経験上、人が死の予兆を見せるのは3ヶ月前で、それまでの人生を語りだすのだそうだ。

思い出せば確かに昨年92歳で亡くなった祖母はまさにそう。

延々と僕は話をよく聞かされたので、とても合点がいきました。

そして、死の1〜2週間前になると痰がよく出て、呼吸するとゴロゴロ鳴る。

顎を上下させるような呼吸になれば死の1日前。

最後は、体の筋肉が緩み、尿と便を出して体には何もない状態で死を迎える。

しかし、問題は、今は医に直接栄養を届けることができるので、死をコントロールするような医療が行われている。

畳の上から病院のベッドの上へ

1960年代は人は自宅で亡くなるのが大半だったのが、研究が進み、死を迎え撃つことができるようになってきた。

以前の死を受け入れる時代は、死とは枯れるように亡くなるという自然なものであったが

延命治療という何が何でも生きさせることがテクニックとして出てきたものだから

死にたくても死ねないような社会にあるのだという。

最後にもう一度幸せな死について考えよう

Photo by Nandhu Kumar on Pexels.com

おそらく、生きれるならできる限りいきたいという人もいるだろうし

治療はいらないからという人も様々であろう。

僕が、癌の父親について病院で聞いていた話は、治療というテクニック的な話しかなかった。

病院はそういうもんだと言われれば、そこまでの話なのですが

治療と共に、心もケアする。死に向けて整えていくことって大事だなと僕は感じた。

今、台湾では医療と宗教が相関連して終末医療に関わって、かなり注目を浴びているのだそうだ。

臨床宗教師と併せて、みなさんお一人お一人問をたてて考える機会をもたれてはいかがでしょうか?

 

 

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