飛騨一の宮 水無神社

ずっと行きたい、行かねばと思っていた飛騨一の宮。

4月に重い腰をあげて行ってきました。

ここは歴代天皇の即位に御笏を献上するという神社。

さっそくご紹介しよう。

水無神社 基本情報

  • 神社名 水無神社(通称スイムさん)
  • ご祭神 水無大神 (御年大神)
  • 創立 神代
  • 住所 岐阜県高山市一之宮町5323
  • 電話 0577-53-2001
  • 入場料 無料

水無神社 地図とアクセス

JR飛騨一ノ宮駅より徒歩8分

水無神社 参拝レポート 2020年4月

参拝日

2020年4月2日

当日の様子

やってきました水無神社。

高山市の南、宮盆地に鎮座してます。

到着は午後3時ごろ。

御嶽山から移動してきました。

御由緒

ウエブサイトより引用

創立鎮座の年代は神代にありと伝わりますが、古伝旧記が散逸して詳しい事は定かではありません。


歴史上にあらわれるのは平安初期、貞観9年(867年)に従五位上の神位を授けられた記事にはじまります。


元慶5年(881年)には従四位上に昇叙され神位も累進し、中世の鎌倉時代以降には神仏習合が進み、神仏一体の両部神道として社僧を置き本地堂一宇を建てて釈迦像を安置し、水無(みなし)大菩薩を称するようになりました。

文明年間(1469年~1486年)の頃には当社には十二家の祝があり、棟梁家として山下、一宮の二家が存在し、社領は付近18ヶ村の3700余石に達して、後にその各ヶが武士化して一宮党として隆盛となりました。


また、この頃には室町幕府へたびたび神や御巻数の進上があったり、大永元年(1521年)出羽国に住む治部宥範が本願のもと、神主藤原氏部少輔政治は所々を勧進して水無神社を造営上葺し、高原城の江馬時経、三仏寺万春後室の妙泉、一宮少納言、渚南兵衛、久々野田中左衛門太郎の人達が資金を寄進されたり、国土の安穏を祈願されたりなどと朝野の篤い崇敬をうけていた事が伺えます。

天文~弘治年間(1532年~1558年)の頃には、社家の一宮右衛門大輔国綱が松倉城主の三木自綱と姻戚関係を結び名を三木三沢と称し山下城主として、神職を家臣の森某に譲り武威を誇りましたが、天正13年(1585年)金森長近に滅ぼされ、これに伴い当社も衰徴しました。


高山藩主となった金森長近は在来からの一宮という神威を崇敬され、慶長12年(1607年)当社社殿の造営をはかり、宮、久々野の百姓を禁足して家並に手伝いを命じるなど厳しい規定を設け再興を進め、江戸時代に入り歴代の領主、代官、郡代の崇敬と一般庶民の篤い信仰に支えられました。

安永2年(1773年)飛騨一円をまきこむ農民一揆「大原騒動」が起き、当社が大集会の地となり、神職の山下和泉、森伊勢の両名が騒動に連座したと処罰され、山下、森両家に代わり安永7年(1778年)信州より梶原伊豆守家熊が招かれて、従来の両部神道を唯一神道に改めて阿弥陀堂、鐘堂、仁王門を撤去して社殿の大改修を行い、祝、社人、社司などと称した職名を宮司(大宮司)制に改め、安永8年(1778年)8月13日から15日までの3日間、飛騨国中の神々を招請して太々神楽を執行し神社の面目を一新しました。
これが現在まで続く「飛騨の大祭」の元であると云われています。

樹齢800年。

スッキリとした境内。

ダムに沈む地域の神様をこちらに移したという社もあります。

お稲荷さま。

本殿です。

14もの神が両隣にお祀りされています。

絵馬殿。

かつて百姓一揆をしたときから見続けている歴史的な建物なのだそうだ。

樹齢450年。

社殿の裏手にスゴそうな御神木がありました。

社殿の裏手から見てます。

お見逃しなく。

まとめ

その昔、大きな百姓一揆の集結地となった悲しい過去があるスイムさん。

次は晴れた日に気持ちよく来たいと思います。

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