300年前の戒めが古く感じられないどころか学ぶところが満載だった

歴史というと古くさいし、何も学ぶものがないと思いがち。

その証拠に、私たちは本でも新しい何かないかを探してしまう。

しかし、過去には積み重ねがあり、参考になるものに溢れているのです。

そんななかの一つをご紹介しましょう。

鎖国でどことも付き合わない

徳川幕府になって、外国との交易はやらないと決めたかつての日本。

しかし、長崎の出島でオランダと中国とは「通商」すると例外措置を設けます。

オランダ中国以外と付き合いもしていた

オランダと中国以外にももう一か国例外的に鎖国だけど繋がろうとした国がありました。

そのお相手は、日本と一番近い国、朝鮮。

こちらは、信(よしみ)を通(かよ)わせるという「通信」関係にありました。

実際には、沖縄も当時は琉球と言って、日本ではなかったので、朝鮮と琉球が通信関係にあったわけです。

鎖国なのに江戸まで各地を旅してきた

オランダ、中国は出島以外には日本に入れませんでしたが、朝鮮は幕末まで12回も訪れていました。

実際の朝鮮と幕府の仲介役は対馬藩が行っていました。

日本からは銀を輸出し、大陸からは絹や生糸などが入ってきていたとか。

お陰で、対馬藩は貿易の恩恵で他の藩よりも裕福になったといいます。

交渉役はいつの世もつらい

そんな朝鮮通信使が行き交う関係になった江戸時代。

しかし、そこに至るまでは秀吉の朝鮮出兵などあった緊張関係を少しずつ解きほぐしてきたからこその話。

朝鮮と言えば、文字はハングルの国で、思想は儒教の国。

その文化や思想を理解できる人物でないと勤まりません。

対馬藩も、そんな人物を、当時の知的文化の集まる町、京都や江戸で探します。

そして見つけたのが、アイキャッチ画像にもあった書を書いた雨森芳洲。

芳洲は近江生まれで対馬藩に籍を置き、同門の新井白石は将軍の側近という関係。

芳洲がいかに知的人物であったかが分かります。

いつ壊れるかわからない間を取り持ちつつ、繋いできた。

そんな経験をしてきたからこそ書けるものがある。それがこの、書なのです。

若い藩主への心掛け11ヶ条

・私事を忘れて公事に専念し、家を忘れて国に尽くす。
・目先のことに振り回されず、遠大な計略を立てる。
・細かく煩わしいことは捨てる。下のものに任せる。
・賢く能力のあるものを選任する。
・忠実で真正直な者を重んずる。
・身以上の贅沢を禁ずる。
・慎ましさを守る。
・潔く、恥を知る。
・貪りの心を慎む。
・正しく善行を認め、悪行を咎める。
・賄賂を絶つ。

これは、1718年に対馬藩主となった宗義誠への雨森芳洲からの戒め。

困難を乗り越えてきたからこそ書ける生き方が示されているかのようです。

今見ても古くないと感じるのは私だけでしょうか?

ぜひとも噛み締めていきたい言葉です。

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