今日日、近江商人の三方よしの精神は、どこにでも出てくる。
出て来るけれど、本当に知っているのかなぁと自分も思ったので、図書館で片っ端からルーツを調べてみた。
ちなみに三方よしは、知らないひとは調べて下さいね。
まず、近江商人の流れを汲む会社は、大丸、高島屋、白木屋、山形屋、西武、伊藤忠、丸紅、住友、双日、日商岩井、ニチメン、トーメン、兼松、ヤンマー、日清紡、東レ、ワコール、西川産業、トヨタ自動車、日本生命、武田薬品、ニチレイ。
いづれも、日本を代表する会社である。
近江商人の出身地の一つとされる近江八幡があるのですが、この近江八幡はもともと、織田信長が楽市楽座を安土の地でやるために集めた商人の末裔なんだそうだ。
信長が明智光秀に本能寺で討たれ、続いて出た秀吉の命令で、安土にいた商人が近江八幡に移されたという訳。
秀吉にしたら、信長のにおいがしないようにしたかったようだ。
そして、文部省も無い時代に、どうして商人として学んだかである。
結構、ここどの人も盲点なところで、昔の教育についてしらない人は多いというのが肌感覚であります。
戦国時代を経た江戸時代、学校というのは全国ない。
江戸では、武士が学ぶための場を作ったりしましたが、地方は自分たちで藩を運営するわけなので、学校という発想がありませんでした。
近江は、陽明学を広めた中江藤樹が生まれたところであり、長岡藩の米百俵の話にみられるように、学びの場を作ることが社会を豊かにするをまず実践してきた所。
その陽明学は一般商人にも伝わり、私塾を設置していくことになります。
中江藤樹のいた高島は高島屋の出身地であり、近江八幡は藤樹の弟子の熊沢蕃山がいた場所で、ふとんの西川の出身地。
この熊沢蕃山がのちに、岡山藩の池田光政公に登用され、池田公が幕府内で学校を建設することが、藩を富ませることを各大名に宣伝したお陰で、地方にも学校が作られるようになります。
このように、学びの場を設けたことで、数十年後の富を収穫することが可能となったのですね。