毎日に自然の中に暮らしていると、メディアから流れてくるのは首をかしげる事ばかり。
今、問いたいのは、あなたは一体なんなんだ?という事だ。
どこからきてどこにいくのか?
昔の人は土から生まれて土に還ると表現したから覚悟ができた。
しかし今は、どこに行かされるのか不明確で不安なのだ。
今回は、そんな世の中を見つめたお話です。
都会という不自然の中で自然であろうとすること
いつも思うのですけど、都会って渋谷なんかのスクランブル交差点の真ん中には石ころが転がっていない。
銀座でもそうだ。石があったら大変だとばかりに撤去する。
昔はそこにもあったものをわざわざ埋めたり、捨てたりして舗装しビルを建てわざわざ不自然にしている。
その不自然な状態にする一方、叡智を持って頭を持って不自然さを自然にしようとしている。
田舎から、都会の優秀な人を見ていると、そんな無駄なことをやるのだろうかってマジでおもったりします。
これって自然なんでしょうか?どうでしょうか?
東京からでもちょっと郊外に行けばいくらでも、自然体になれる場所があるわけですから、不自然なものを作った上に自然でいようというのは、頭がおかしいとしか僕には思えて仕方がない。
自分自身こそ自然
最近というか、ずっとそうですけど、メンタル不調を訴える人って多い。
これって自分でバケツに足突っ込んでおいて歩きにくいと言ってるようなものだと僕からしたら見えるのです。
カラダがおかしいおかしいと不自然な空間である都会で言うのは、ものすごくカラダが正常に動いて警告を発してくれているのだと思う。純天然なものである自分自身からのアラートなのだ。
自然なものを求めて彷徨う前に、自分を自然ということも忘れているように思います。
自然たる自分のインナーボイスは聞かずに、わざわざ高い健康食品やパーソナルトレーニングやエステに勤しむ。
そして、自分へのご褒美だのなんだと言って定期的に、暴飲暴食して酩酊して自然たる体に負担を強いているのだ。
一体何がしたいんだとカラダも思っていることだろう。
感覚を遮断した空間
都会にいると家から出た瞬間から、意味のあるものに囲まれて過ごす。
エレベーターには人が明かりをつけ、空調を調整したものが内蔵されている。
外に出る。石ころも雑草もない綺麗な道をマンション群に囲まれ、わずかばかり見える空の下を歩き、地下鉄へ。そこには人が明かりをつけ、空調を調整したものが内蔵されている。
ようやくオフィスに着く。
しかし、そこも人が明かりをつけ、空調を調整したものが内蔵されている空間なのだ。
そうやって家にたどりつき、窓を開けた先には、ビルと屋根が続く荒涼とした野が広がっている。
頭でコントロールしようと思ってもカラダは正直なのだ。
閉鎖空間で自分で自分を抑圧しながら暮らすということ
全てが意味のある人工物に囲まれた都会。
つい200年前ぐらいまではみんな木や森に囲まれて暮らしていたのに、とんでもない事態です。
地球が生まれて45億、人類が誕生し500万年。
我々の持っている、目や耳などの器官は自然に100パーセント適応するように進化してきているわけです。
そこを人工物で囲って、見えなくしてるわけですから、本能的に不安になるのは当たり前なのだ。
子供達が安心して暮らせるようにというのであれば、自然の野に放つのが一番だ。
金網のフェンスに囲まれた運動場で、健全な子供が育つでしょうか?
最後に
なかなか泣き言が言えない文化のある日本という社会。
ストレスをあまりにも抱えて人生を終える人も少なくありません。
いつも思うのは、健康な時だからこそ考えてほしい。
あなたの幸せは、周りの人にも幸せになるし、あなたの不幸は周りにとっても不幸になる。
ちょうど今はいい変革期にあるが、稼ぐよりもただ生きる。
そんなことも大事じゃないかと思うのだ。