我々のご先祖様が素晴らしいと思ったそんな江戸のお奉行様をご紹介

素晴らしい人とは何をもって素晴らしいというのか。

そんな疑問を持ちました。

コロナウイルスのニュースでも、いろんな人がああでもないこうでもないといろんなことを言ってましたが、何を持って常識というのか、皆さんもそんな疑問もお持ちになられたのではないでしょうか?

そこで、江戸時代のお奉行様について本を調べていると、昔の日本人が素晴らしいと感じた日本人像が浮き上がるのではと閃きました。

ワタクシもまだまだ調べている途上ですが、書くことで一段深く理解したいと、記事にしてみました。

江戸時代の名奉行

名前をクリックしてもらうと、ウィキペディアに飛ぶようにリンク貼っておりますので参考にしてくださいね。

板倉勝重

(1545〜1642)

江戸町奉行・京都所司代

知行地1万6600石

江戸時代を通じて名奉行といえば名前が挙がる人物。

戦国時代に生まれ長男でなかったことから出家したが、長男が戦死し40手前で家に戻され武将になった人。面白いでしょ?

とにかく、江戸時代でもまだ整う前の人なので、民衆にとても近く、ドラマの遠山の金さんを思わせる庶民との関わりがあったようです。

あの新井白石も絶賛の人。

石谷貞清

(1594〜1672)

北町奉行

知行地1500石

関ヶ原の合戦が終わって50年ほどは幕府による大名の調整があり、影響を受けたのはなんと217家。主君を失い浪人となった人が50万人いた頃のお奉行。

大阪夏の陣を経験し、島原の乱ではナンバー2。ナンバー1が討ち取られてしまっているので、実質上の指揮官となった人。

由井正雪の乱を鎮めるなど活躍。

治安のためにも吉原の遊郭を浅草に移すなど、江戸の大改革を行なったとされています。

徳川吉宗以前の処刑は、罪を犯せば本人だけでなく、親兄弟家族も同罪で死罪だったそうです。

石出帯刀

(1615〜1689)

牢屋奉行

350年、今も続いている牢屋の掟を作った奉行。

火事の多かった江戸。牢屋にも火の手が迫る。そんな時にとったお奉行様の行動が素晴らしい。

管理している小伝馬町の牢屋敷に火が移って囚人たちが焼け死ぬことになる。それではあまりにも不憫だと吉深は考えます。しかし鍵は奉行所が保管しており吉深の手元にはありません。刻一刻と迫る火の手に対し、奉行所へ鍵を借りにいく余裕はなかったことでしょう。独断で「逃げることなく、必ず浅草新寺町の善慶寺に戻るように」という条件をつけて囚人たちを外に出しました。

他にも、牢屋の格子を四面にすることで、ジメジメした土蔵ではなく、空気を通すことで、環境改善に取り組むなどの改革をされたそうです。

牛込重忝うしごめしげのり

(1622〜1687)

長崎奉行

鎖国とはいえ、長崎には中国人が1万人は住んでいたそうで、オランダ人とともに交易は行われていた。

そこで、不正が横行し、治安が乱れていたところをこの奉行が鎮め、外国に流れていた日本の資産を食い止めた人。

中山直守

(1633〜1687)

火付盗賊改

知行地4000石

海老責めを考案した奉行。

米津田政

(1563〜1624)

南町奉行

家康、秀忠に仕え、小牧長久手の戦い、小田原征伐、関ヶ原にも参戦。最初の江戸町奉行

知行地5000石。

以下は主にお名前をご紹介。

加賀爪忠澄 吉原大門で楼主11人を磔にした。伊達政宗を平手打ち。

神尾元勝 歴代奉行の中で最長20年の勤続年数。

渡辺綱貞 越後騒動というお家騒動を裁いてしまい、綱吉により八丈島に流罪となったお奉行様。かわいそう。2000石。

甲斐正親 八百屋お七を火罪から救おうとする。

お七が16歳になったばかりであったことから、正親は哀れに思い、お七の命だけは救ってやろうと(放火犯に対する罰則の下でも、16歳未満なら死刑(火刑)を回避して遠島に減刑できる)「お七、お前の歳は十五であろう」と聞いたものの、彼女が正直に16歳であると言ったため、正親は自らの意図が理解できていないと思って重ねてお七に年齢を問いただすも、彼女は正親の意を汲むことができず、再び正直に16歳だと答え、さらにお宮参りの記録を証拠として提出したため、やむなく正親はお七を定法どおりの裁きによって火刑とせざるを得なくなってしまった。(ウィキペディア引用)

中根主税正和 八丈島の流人になるも赦免される。

太平の世の中に活躍

大岡越前 吉宗の懐刀。

徳山秀栄 元遊び人が、大盗賊の日本左衞門を獄門にした。2700石

曲淵景漸 田沼意次、松平定信も頼りにした。長谷川平蔵の上司。

伊奈忠尊 最後の関東郡代。天明の打ちこわしに対応。

池田長恵 鬼平のライバル。喜んだりがっかりしたり、リアクションが大きかった。

長谷川宣以 鬼平。通称長谷川平蔵は三代続き、鬼平は2代目を指す。

小田切直年 誠実慎重な町奉行。甲斐武田家没落後徳川家に仕え、18年という歴代4位の在任期間。3000石

根岸鎮衛 気さくなお奉行様。1000石で耳袋という30年にも及ぶ世間話を集めたものを残していて、今も読めます。

脇坂安董 大奥と社寺が恐れるお奉行様。外様にも関わらず奉行に取り立てられた有能な人。最後は老中までのぼりつめる。

榊原忠之 鼠小僧を裁く。織田信長の弟の家系。北町奉行在任は17年。

杉岡能連 将軍4人に仕えたお奉行様。幕府が備蓄している城米の放出や、暴動が起こった際に各地の大名へ通達して迅速に鎮圧することを吉宗に建言。

神尾春央 享保の改革を支える。年貢率の強化、収税状況の視察、隠田の摘発などを行い、百姓たちからは大いに恨まれたが、その甲斐あって、同年は江戸時代約260年を通じて収税石高が最高となった。

藤懸永直 あまりにも厳しいお奉行様。

稲生正武 吉宗政権の最初から最後までともに走ったお奉行様。正武の事績の中でも特に目覚しいのは江島生島事件と天一坊事件の追及に寄与

依田政次 宝暦事件で逃れた藤井右門が山県大弐と甲府・江戸城攻撃の軍略を述べたことなどを理由に、1767(明和4)年、両人が死刑を死刑にするなどの明和事件で有名。

牧野成賢 享保の頃より住居も確保できない無宿の者達が増加の一途で、救済し、社会に復帰させ、生活を立て直す為の援助をすることによる犯罪の抑止の施設を設ける。2200石。

長谷川平蔵 鬼平の父。明和の大火の犯人を捕らえる。

横田松房 拷問用の横田棒を考案。

森山孝盛 勉強熱心な人で、小普請組頭を務めていた折には、自ら組付きの小普請たちの屋敷まで出向いて書類の指導・代筆・受取りを行った。この行為は、書類を提出しようにも家計難で供揃いを雇うこともままならず外出が困難な小普請旗本たちを想いやってのことだった。

池田政貞 多くの判例を残した。

幕末期

筒井政憲 日本の先100年を見ていたお奉行様。安積艮斎は、下情に精通し少しも私曲がなく、統率力があって迅速、公平な裁きを下し、人々から敬愛される人物であったと評した。

内藤矩佳 天保の7人の賢人と言われた勘定奉行。遠島にした者が初の島抜けに成功。

矢部定謙 高潔なお奉行。

遠山景元 遠山の金さん。

鳥居忠耀 怖がられたお奉行様。江戸の市民からはかなり嫌われていたようであり、市民に人気のあった上にもある矢部の後任として南町奉行になる際、「町々で惜しがる奉行、やめ(矢部)にして、どこがとりえ(鳥居)でどこが良う(耀)蔵」という落首が詠まれたという。また、丸亀藩にお預けになった際には「金毘羅へいやな鳥居を奉納し」という川柳も詠まれている。

池田頼方 安政の大獄の時の南町奉行。

川路聖謨 ラストサムライのお奉行。

幕末にロシア使節プチャーチンとも交渉。

跡部良弼 水野忠邦の弟で、旗本・跡部家に養子入りしたが、兄の威光を背景に周辺とトラブルを起こすことが少なくなかった。 駿府、堺の両町奉行をへて大坂東町奉行となったが、在任中には米価が暴騰し、多数の餓死者が出たことに対して打開策をうたずに豪商らによる米の買い占めを傍観し、与力で陽明学者の大塩平八郎の提案した救民計画を無視し、江戸に米の廻送を命じ米価はますます高騰。 大塩平八郎の乱後も跡部は咎められることはなく、大目付を経て勘定奉行に栄進している。 天保の改革の失敗により、兄・水野忠邦が失脚した後も政治的命脈を保ち続けたというとんでもない人物である

佐々木顕発 井伊直弼に対立し要職から外される。

佐久間信義 平の与力からゴタゴタで奉行になり、奉行所を明治政府に引き渡す。

石川利政 最後の北町奉行、官軍に囲まれ自刃。

ワタクシ思いますに、人口に対して、全然取り締まる側の数が少ないのにも関わらず、よくやったものだと、本当に感心してしまいます。

当然激務で、長い期間できなかったようですが、それにしても統治できていたわけですから、徳川政権のシステムが機能していたわけで、今にも参考にできるところが多々あるような気がしています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ついでにもう一本いかがでしょうか?

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