【天下の無双】安土城地元にいながら2回目の登城【壮大なお城でした】

地元にいながら通り過ぎるだけの場所ってかなりあります。

これまでテレビの撮影でいろいろ行きましたが

まだまだ知らないわからないことなんて山ほどあります。

本当の意味で何を知っているのだろうかと思うこともしばしば

自分の知っていることなんて世の中のほんのわずかなのだと考えています。

今回行ってきましたのは安土城址。

織田信長の居城です。

それでは早速見ていきましょう。

安土城アクセス

電車ではJR琵琶湖線 「安土」 下車 徒歩 25分

 車なら名神竜王ICから20分駐車場無料

織田信長の居城 安土城

ウィキペディアによるとこの安土城を築城した目的は

岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く

琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり

加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから

「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されています。

城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように

天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し

一目にして人々に知らしめるものであり

山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し

家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされています。

安土城絵図

ウィキペディアより

城前広場

安土城入り口

入山料 大人 700円 小人 200円

安土城周辺は湖だった

下の画像にありますように

緑の色が塗られている安土城は

青色の湖に接しており

琵琶湖から船で城に入れたと言われています。

今は埋め立てられて田んぼになっていますが

とても機能的だった城であったことがわかります。

安土城石垣

安土城には巨石が数多くつかわれています。

各地から取り寄せたと思われますが

長命寺という安土の近くの山には

巨石群があり、実際に確かめてきました。

動画をご覧ください。

石が出てくるのは最後の方になります。

信長の野望

大手筋を入ってまず出てくるのが秀吉と利家の屋敷。

そのあとに家康の屋敷など

のちの天下人も当時の扱いを推察できる地図がありますし

書かれたものも置かれているので

歩いていて飽きません。

大手筋

前来た時は桜が咲いている時で、石垣と白とのコントラストが最高でした。

今回は梅の時期で桜には少し早かったようです。

とはいえ、壮大な安土城の石垣は圧巻ですよ。

黒金門前

いろいろ見て回れば天守閣まで30分はかかるでしょうか。

こちらは、安土城の主要部に入る直前の道になります。

黒金門

壮大な往時の姿が偲ばれる黒金門より先は、信長が選ばれた側近たちと日常生活を送っていた、安上城のまさに中枢部となります。

中枢部へ

天守閣

日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となりました。

ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となったのです。

安土城からの眺め

本丸跡

ウィキペディアによると安土城の本丸御殿は、天皇を迎えるための施設だったという可能性が指摘されている。

主な根拠として、

  • 礎石(=柱)の間隔が非常に長い。通常、武家の建築物の柱の間隔は6尺5寸(約1.97m)だが、この本丸御殿は7尺2寸(約2.2m)もある。公家の建物であれば武家のものより長いが、それでも7尺が標準であり、7尺2寸というのは現在の御所よりも長い。
  • 詳細な調査を行って復元図を作成した結果、建物は3つ存在したことが明らかになった。その配置は「コ」の字型という特殊なもので、清涼殿と共通する。
  • 1613年に江戸幕府が建てた清涼殿の図面を、東西逆にすると、上の復元図とほぼ重なる。規模や部屋割りもほぼ一緒である。
  • 1589~1591年にかけて豊臣秀吉が建てた清涼殿は、この徳川幕府製の清涼殿と基本的に同様の平面構成を持っている。
  • 近世(豊臣・徳川時代)の清涼殿は、一部に武家住宅の様式を取り入れているという点で古代~中世の伝統的な清涼殿から大きく様変わりしており、安土城が建てられたのはこの中世と近世の間、しかも豊臣版の清涼殿が建てられる前である。
  • 信長公記に、安土城の屋敷の中で「御幸の間」「皇居の間」を拝見したと書かれている。
  • 言継卿記には「来年は内裏さま(=天皇)が安土へ行幸する予定」という、著者・山科言継の娘の手紙が記録されている。
  • 菊の紋章がついた瓦が発掘されている。

安土城二の丸

安土城が信長が亡くなった後、光秀が入場し、山崎の合戦後天守閣は焼失したとされていますけれど

二の丸は光秀の後も残っていたそうで

城の機能はそのまま維持されていたそうです。

しかし、近くの八幡に豊臣秀次が城を気づくと

安土城はその役目を終えたのだとか。

織田信長本廟

安土城の二の丸跡と伝えられる場所に織田信長の本廟があります。


1583年2月に羽柴秀吉によって建立。

信長の太刀や烏帽子などの遺品を埋葬して本廟としたそうです。

護国駄都塔

江戸時代天保年間の刻印が裏に書かれています。

何のためにあるのかは分かっていないそうです。

摠見寺

安土城址にある摠見寺(そうけんじ)は


信長が生前中に建立した寺院。


今は臨済宗妙心寺派となっています。

嘉永七年に二王門と三重塔以外は焼失してしまい


現在は大手道の右手にある家康邸跡に仮本堂としています。

摠見寺本堂

案内図などによると摠見寺はもともと別の場所にあったものを

安土城を建てるということで

移築してきたのだとか。

安土城ビューポイント

摠見寺本堂跡からの眺めは最高です。

三重塔周辺

享徳3年(1454年)建立の三重塔があります。

500年前のものが見れるという木造建築の凄さ。

摠見寺創建時に近江国甲賀郡長寿寺より移築されたそうです。

下の階段は、その塔より仁王門に続く急な階段。

仁王門

入母屋造本瓦葺き楼門。元亀2年(1571年)建立。

摠見寺創建時に近江国甲賀郡柏木神社より移築

調べてみると、柏木神社の楼門を攻めて持ってきたということでした。

神社の楼門だったのです。

興味深いですね。

お疲れ様でした

そして下城です。

みなさま最後まで読んでくださりありがとうございました。

よろしかったらもう一本いかがでしょうか

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