関ヶ原の前哨戦 大津城籠城 毛利立花約2万人対戦国最弱京極高次3000人

日本で一番大きな湖のある滋賀県。

歴史を見るといろいろなお城が思い浮かびます。

今あるのでは、ひこにゃんも有名な国宝彦根城は何と言っても外せませんよね。

でも、この彦根城は大津にあったお城の材料を用いて建てられたお城だと言われています。

見ていきましょう。

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僕は10年ほど前、母親がまちづくりのボランティアをやっていた関係で、少しずつ地元の歴史を知るようになりました。

それまでは、お寺や神社しかないという刺激のない学生時代を過ごしたと思っていたのですが、調べていくと自分が恥ずかしくなるぐらいの出来事が繰り広げられてきた場所だということが分かりました。

地元の間でも話は出ないし、だれも知らないような話ですが、丹念に資料を集めていくと元々からの歴史好きにとっては、地元への解釈を改めなければいけないと思う程でした。

そこで、ブログという場所がありますので、僕が知ったことを大勢に知っていただきたいと思いから書き進めていただこうかと思います。

今回は大津城について書かせていただきますね。

大津のどこにお城があったの?

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滋賀県は京都に隣接していて、琵琶湖の周りを山々に囲まれており、鈴鹿の関所、愛発の関所、不破の関所、逢坂の関所と主要な道には関所がおかれ、城を築いて守るには好都合な地形。

織田信長も本拠地を近江に移し安土城を琵琶湖の東に、坂本城を西に、大溝城を北に築きました。

いかに、京都への道を重要視していたのかが分かります。

そこで、今回書いていこうというのは大津城。

多くの人が大津行ったことがないといいますけれど、新幹線で東京、京都間を乗られた方ならみなさん大津に来られています。

東海道新幹線で京都から10分ぐらいが大津のあたり。

「ああ!」と言われるのですが、どうぞ一度ゆっくりお越し下さい。

滋賀にはお城が大小1000以上あったと言われていますが、大津城は京阪電車の浜大津駅の辺りにありました。

ありましたというのは、今は一見すると何もないのですが、確かに存在したのです。

大津城は坂本城のリサイクル?

僕の地元は大津でもこの坂本という場所なのですが、ここは織田信長の命令で比叡山延暦寺を焼き討ちし、その後延暦寺を監視するということなどから坂本城が明智光秀により建てられます。

この坂本城が、光秀亡き後、大津城に資材が転用されたと言われています。

昔は、このような再利用がかなりされていたそうです。

この陣頭指揮にあたったのが、秀吉の部下の浅野家。

赤穂浪士で有名なのちの赤穂藩はこの浅野の分家になります。

そして、城を完成させたのが京極高次というなのです。

京極家とは?

この高次という男が興味深い一生を送りますので、少しくわしく話します。

この京極家、名前の由来は京都の繁華街の京極。

もとは佐々木という名が、鎌倉時代に将軍から館をもらったことからつけられた近江源氏の名門。

しかし、鎌倉時代は名門でも、戦国時代には没落寸前だったそうです。

そこで、昔、京極氏に仕えていたような浅井家に養われるような形ですごしていたところで、織田信長が登場。

浅井家を滅ぼし、京極高次は6歳から信長の傍で仕え、家臣となります。

その後、残念なことが続きます。

信長が殺され、明智光秀の下についていた京極は、明智の一軍として女や子供しかいない秀吉の長浜城を攻めます。

その光秀も殺されるので、柴田勝家を頼って逃げます。

さらに、勝家も自害させられ、流転していきます。

しかし、面白いのは人生どうなるかわからないところ。

この京極高次の妹が絶世の美女の存在があり、天下人の秀吉の側室となったことから不運続きの高次にも運がめぐってくるのです。

京極高次大名になる

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血で血を洗う時代。

いつ殺されてもよかった人が、運命のいたずらかなんと近江高島で3万石の大名になります。

そして、信長の北の砦である大溝城1万石も手に入れ、合計4万石。妹さまさまです。

ちなみに、信長の妹の絶世の美女お市の方には3姉妹の子供がいて、長女は淀君は秀吉の元へ。次女お初はこの京極高次の元へ、そして三女のお江は家康の息子秀忠の元へ。

秀吉にはねねという正室がいて、側室ナンバー1が淀君、ナンバー2が高次の妹龍子という位置関係を見ておいてください。

この高次と秀吉の縁で、北条家追討の小田原攻めのあとは、高次は近江八幡にある城を手に入れます。

ここは、秀吉の弟である秀次の城で、元々全部合わせて100万石という身分の者が治めていた城ですが、高次自体は2万8000石で入るので、破格の領地だと言えます。

とうとう豊臣高次になっちゃった

秀吉は人材は使えるものは使う人。

農民上がりの秀吉には、鎌倉以来の京極ブランドはキラキラ見えていたことでしょう。

高次に京都への出入り口大津6万石に加増して与えます。

ここに高次が大津城を浅野家から引き継ぎ完成させるのです。

さらに、秀吉の姓である羽柴、そして豊臣までも高次に与えられ

宮中の官位で、従三位参議大津宰相にも任命されます。

すごい成り上がりですね!

そして秀吉が亡くなる

こうなると、世間はまたきな臭くなってきます。

多くの方がご存知のように徳川家康と石田三成の東西に分けた関ヶ原の合戦に向けて動き出します。

そして、運命の糸に操られるかのように京極高次の大津城も巻き込まれていくのです。

僕は戦国の時代に一番大津が輝いたのが、この辺りかと考えています。

兵力 3000人 VS 20000人

大津城攻略には主に九州の大名が参陣。

毛利元康を総大将(中国地方の覇者、毛利元就の8男)とし、小早川秀包(小早川隆景の養子)、小出三伊(小出秀政の四男)をはじめ、戦国最強と言われた立花宗茂も筑紫広門、高橋直次など総勢2万が集められたといいます。(1万五千など諸説あり)

ちなみにこの立花宗茂は、秀吉の朝鮮出兵時に中国の明軍を破って恐れさせたという戦上手。

対する、京極高次は朝鮮出兵時は、博多で待機ですし、それ以前は負け続きで、まともに勝ったことがありません。

これがぶつかるのですから、戦とは言え興味深い話です。

そして、9月9日巳の刻、午前10時頃火蓋が切られ、9月15日まで戦いは続けられました。

その15日はなんと関ヶ原の当日。

京極高次は、とてつもないことをやり遂げていたのです。

もし、この軍勢が、最強立花宗茂があの関ヶ原に立っていたらなどさまざまなことを想像してしまいます。

大津城は彦根城へリサイクルされます

そして、この西軍を足止めにしたこの大津城で、徳川家康は10日ほど滞在し論功行賞をし

この城をそのあと、まこと徳川にとって縁起のいいものとして彦根城に利用し、譜代筆頭の井伊家に西国の睨みをきかせるという役目を与えるのです。

明智光秀の坂本城、京極高次の大津城、そして井伊家の彦根城とめぐりめぐっているんですね。

いかがでしたでしょうか?

関心持っていただけるとうれしいですね。

 

まとめ

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滋賀の県庁所在地大津に大きなお城があった

明智光秀の坂本城のリサイクルが大津城

京極家は超名門だけど落ちぶれていた

京極高次は主君がつぎつぎ殺され、戦で勝てないのがお家芸

妹が綺麗で命が助かる

秀吉に重用され大大名へ

天下分け目の関ヶ原を前に一世一代の大勝負

大津城は徳川家にとって縁起の良い城だから彦根城にリサイクル

 

いかがでしたでしょうか?

すこしでも大津に興味を持っていただけるとうれしいなと思います。

お付き合いありがとうございました。