運河のまち滋賀県近江八幡 日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう )

豊臣秀吉の甥である秀次が築いた城下町、滋賀県近江八幡にあります日牟禮八幡宮をご紹介しましょう。

なにせこの秀次さん。

昔から秀吉にいいように使われて、人質に出されたり養子に出されたりしながらも子供のいない秀吉から次の関白の地位を譲られておきながら、最後は一族全員処刑されるということとなった気の毒としか言いようがない人。

しかし、のちに近江商人が活躍する元となった近江八幡の地の土台を築き、今も慕われているところを見ると

日本人の人の見る目にホッとさせられます。

それでは早速見てゆきましょう。

八幡堀に沿った道端に立つ大鳥居

やってきました快晴の近江八幡。

琵琶湖の東側にあります。

織田信長が安土に城を築き、その死後は安土の民がこの地に移り住み

江戸時代に近江商人の八幡商人として活躍する流れがとても個人的に興味を持っているところです。

信長イズムを受け継いだ街だと私は感じております。

日牟禮八幡宮のアクセス

車で来るのがなんと言っても便利。

神社の前は無料で停められますし、見所は集まっています。

八幡堀

八幡堀は、安土・桃山時代に豊臣秀次の八幡山城居城のもと、城下町が栄える原因となった町の一大動脈。

近江商人の発祥と発展、また町の繁栄に八幡堀は大きな役割を果たし、江戸時代後期には近江国において大津と並ぶ賑わいを見せたといいます。

昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路でしたが、戦後は陸上交通の発展によって廃れました。

堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子をよく伝えています。

日牟禮八幡宮の大鳥居をくぐったところに、堀に白雲橋がかかり、橋からは、かつて全国各地から送られてきた物産を一時保管した土蔵が見られます。

3月中旬の訪問で桜が咲きはじめておりました。

豊臣秀次は秀吉に処刑されたと言いますが

このように死後も愛されて、心の中で生き続ける

素晴らしいなと思います。

水郷めぐりで船にも乗れますのでお試しくださいませ。

八幡伝統的建築物群保存地区

保存地区は、旧城下町の東よりの保存の良好なところで、新町筋、八幡堀周辺、永原町筋に八幡山南麓の日牟礼八幡宮境内地を加えた約13.1ヘクタールの範囲の地域。


平成3年4月30日付けで国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。

白雲橋

近江八幡の見どころの中心的な白雲橋。

宝暦とは1751年から1764年までを言います。

もはや元号を独自で使っているのは日本だけ。

平成、令和もその1ページになってゆくのでしょうね。

下の画像は白雲橋を堀から見ています。

お堀端は遊歩道になっていますので、気をつけながら散策してみてください。

日牟禮八幡宮楼門

日牟禮八幡宮の創建は、ウィキペディアによると

伝承によれば、成務天皇元年(131年)、成務天皇が高穴穂の宮に即位の時、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神(大国主神)を祀ったのが草創とされている(この大嶋大神を祀ったのが、現在の大嶋神社奥津嶋神社なのか、境内社の大嶋神社なのかは定かではない)。応神天皇6年(275年)、応神天皇が奥津嶋神社から還幸の時、社の近辺に御座所を設けられ休憩した。その後、その仮屋跡に日輪の形を2つ見るという不思議な現象があり、祠を建て、日群之社八幡宮と名付けられたという。

持統天皇5年(691年)、藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟禮社と改められたと云われる(「天降りの 神の誕生の八幡かも ひむれの杜に なびく白雲」)。

正暦2年(991年)、一条天皇の勅願により、八幡山(法華峰)上に社を建立し、宇佐八幡宮を勧請して、上の八幡宮を祀った。さらに、寛弘2年(1005年)、遥拝社を山麓に建立し、下の社と名付ける

江戸時代は鎖国していましたが、それ以前に海外に渡り、鎖国になり帰って来られなくなった人が自分は帰国できないが

成功したことを神様に絵を描いて奉納したものがこちらになります。

西村太郎右衛門という商人のようです。

こちらは武道上達を願ったのでしょうね。

左義長まつり

近江八幡の左義長まつりは、織田信長が安土城下で毎年正月に盛大に繰り広げ、自ら異粧華美な姿で躍り出たと「信長公記」にも記されている天下の奇祭。

信長亡きあと豊臣秀次が八幡山城を築き、それにつれて安土から移住した人々を中心に八幡町が開町されました。

日牟礼八幡宮例祭「八幡まつり」の荘厳さに驚いた町民は、開町による新進気鋭の喜びを込め厄除け、防火の由緒ある御神徳を仰ぎ、左義長を八幡宮に奉納したと伝えられています。

しかし、現在の左義長まつりは、近江商人の隆盛によって、商売繁盛を祈願するまつりとしての意味合いの方が強いようです。

左義長は、新藁で美しく編んだ約3メートルの三角錐の松明の上に数メートルの青竹を立て、細長い赤紙や薬玉、巾着、扇などで飾られます。

能舞台

調べていると、滋賀県というのは近江と大和、今の奈良県とともに能のが盛んだったようです。

私が知る限りでは、このような立派な舞台があるのは、伏見大社と福井の若狭姫神社ぐらい。

商人たちの力があったからこそ維持できたのではないかと考えています。

主祭神 誉田別尊

主祭神は三柱いて、まずはこちら。

応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 – 応神天皇41年2月15日)は第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 – 同41年2月15日)。『日本書紀』での名は譽田天皇。実在性は定かでないが八幡神として神格化されているそうです。

多くの八幡神社に御祭神として祀られているのが、神功皇后の御子である応神天皇。

古事記の中では頻繁に巡行し、領地の視察や婚姻による新たな氏族と繋がるなど武勇伝が多く、出世や成功、家運隆昌の象徴として源氏の氏神にもなっている。

息長足姫尊

続きましては神功皇后

神功皇后(じんぐうこうごう、成務天皇40年 – 神功皇后69年4月17日)は、日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。『日本書紀』での名は気長足姫尊で仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされる(在位:神功皇后元年10月2日 – 神功皇后69年4月17日)。

滋賀県の米原市のサイトによると興味深い記事が↓

息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族。

息長の名前がはじめてあらわれるのは、現在最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』。

古事記では、開化(かいか)天皇段に「息長水依比売(おきながみずよりひめ)」の名が、日本書紀では仲哀(ちゅうあい)天皇条に「気長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功(じんぐう)皇后)」の名がみえます。

その後も、息長氏は天皇家に后妃を入れ、天皇の親族として国政や修史事業に携わりました。

滋賀ゆかりの方なんですね。

比賣神

宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称。

アマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

本殿の上部に、徳川家の紋と天皇家の紋と社紋が見えます。

徳川にも大事にしてもらい、天皇家からも同じように大事にしていただいたからなのでしょうか。

いいお参りさせていただきました。

Leave A Comment コメントをキャンセル